2018年4月7日土曜日

過去の出来事が性意識や価値観を作り出す

 過去の出来事を振り返ると、自分の思わぬルーツが見えてくる。

  この前、ふと自分の過去を振り返ってみました。すると、自分の子供のころの出来事、特に「いじめ」のようなものが、私の価値観とか考え方を形成するうえで、非常に大きな影響を与えたということがわかってきました。その結果、どうやら私は屈折して、社会で「正常」とされているライフスタイルや考え方から逸脱してしまったようです。

 「いじめ」自体については前に記事を書いたので、そちらをご覧ください。この記事では、その中で「性についての考え方」の形成にかかわりの深いものをピックアップしています。ここで紹介するもの以外にもいろいろありましたので、読んでみると面白いかもしれません。

 私の性についての考え方はおセンチな溜息のツイッターでもよくツイートしています。また、このブログでも書きました。そちらを読んでいただければ幸いです。

 一言でいえば、フリージェンダー的な考え方です。そんな考え方を、現在20歳前後ですが持っています。この考え方というか思想は、世間一般でいうところの「普通」ではないと思っていました。しかし、私は「普通」ではないことをむしろ誇りに思っています。なぜなら、フリージェンダーという考え方のほうが、異性愛しか認めない「普通」の考え方よりも正しいと思うからです。論理的にも、道徳的にも。だから、このような考えを平気でツイッターやブログで発信しています。自分の思想は、一種の人類愛のようなもので、すばらしい。だからもっと広めるべきだ。若干自分の思想に酔っていたところはあります。

 しかし、それは違うのではないか。自分の考えていることはそんな大した思想ではなくて、自分の過去の出来事によって形成された、ちっぽけな一つの考えに過ぎないのだと気が付きました。時間があったときに、ふと過去を振り返りました。どうしてこんな考え方をするようになったのかを、考えました。すると、それは中学校の頃に嫌がらせを受けた経験に起因するのだとわかりました。正直、がっかりしましたよ。偉大な正義の思想だと思っていたものが、いじめられっ子のルサンチマンに満ちた思想だとわかったからです。
 
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  著者の基本プロフィール
年齢......現在、20歳前後
性別......身体的には男性(ただし、精神的には男性であることにも女性であることにも納得していない。このことについてはまた記事を書くかもしれません)
外見......やせ型、眼鏡
性格など......自分では判断にくいが、内向的だと思われる。インドア派。
趣味......読書、音楽鑑賞、ゲームなど
  

  中学校時代

 入学直後、委員会とか役割分担を決めます。例えば、クラスを代表するクラス長とか、病気の人をチェックして保健衛生を担当する保健委員とか、国語の授業の準備や片づけをする国語委員などです(役割の名前は記憶があやふやであまり覚えてないですが)。
 そこで、私は社会の授業が好きだったので、社会委員に立候補しました。しかし、「委員会などというものは自分でやりたいのを立候補するのではなくて、仲のいい同性の友達と一緒にやる」というのが普通だったのでしょう。教科ごとの委員はそれぞれ二人選ぶのですが、国語とか数学とか、ほかの教科はすべて同性の友達同士(男二人、あるいは女二人)でやっていた記憶があります。そんな中で、私は友達もいませんでしたし、一人で立候補したわけです。そうしたらある女子が社会委員に立候補しまして、唯一男女ペアになったわけです
 これがどうやら、同級生の男子数人には面白かったみたいです。からかわれるようになりました。彼らは「あの子のこと好きなんだろ?」とか言ってきました。私は別にその女子をなんとも思っていなかったので、「そんなことはないよ」と言いました。しかし、その回答ではつまらなかったらしく、しつこく言ってくるので、私が怒り出すと、私のその反応を面白がってからかい始めました。「式に決まってるだろ。そうでなきゃどうして一緒に委員なんてやってるの?」「ほらほら、そんなに怒っちゃって。怒るほど好きなんだね」という感じですかね。結局、「本当は好きなのにそう言わないなんて嘘つきだぞ!!」となって、「いや、僕は嘘つきなんかじゃない!!」と言い返す。すると「うーそーつきっ!!うーそーつきっ!!」みたいな雰囲気になる。そして、私は自分の名誉を「嘘つき」という言葉で不当に傷つけられ、泣くわけです。すると、それがまた彼らには面白かったようで、さらにいろいろなことを言いふらされるようになります。これを契機として、殴る蹴るの暴力的ないじめにまで発展しました。
 このとき、私は何をしたのかというと、「異性(女性)を(恋愛対象として)好きになる」ことを「悪いこと」として認定したのです。本来、異性を好きになることが悪いことであるはずがありません。それは自然なことです。しかし、私の場合は、周囲から「制裁」を受けたので、悪いことであると誤認したのです。子供って、そういうふうに育つでしょう。何かをやってみて、それで怒られたら「あ、これは悪いことなんだな。やっちゃいけないことなんだな」と認識して、学習するわけです。私もそうして、不当に「異性を好きになること」を「悪」として学習して、これを忌避するようになりました。

 そうなると、私の人生はどんどん「普通」から逸脱していきます。
 まず、「普通」であれば女子に恋して、告白して付き合うかもしれません。しかし、私はそれを「悪」と見なしています。好きな人はいませんでした。たとえ好きになっていたとしてもその感情を押し殺していたかもしれません。なので、告白したことは一度もないです。それどころか、話したこともほとんどないです。一種の恐怖症のようなものかもしれません。話していた女子が一人いましたが、その人も女子として見ないようにしていました。部活もたまたま男女が明確に分かれている部活とか、そもそも女子部員が一人もいない部活だったので、女子とかかわる機会は本当にないです。
 次に、「普通」であればエッチなビデオとか写真集を見るかもしれません。しかし、私はそれを「悪」であると見なしているので、見ません。当時はインターネットが普及してきていて、自由にいろいろ見ることもできたわけですが、そういうのは見ませんでした。
 その代わり、どの方向に性の欲求が向いたかと言えば、同性なのでしょう。ネットでくそみそテクニックとかガチムチパンツレスリングとかを見ていました。学校では同性に恋愛感情のようなものを抱きました。しかし、それが明確に恋愛感情とは言えません。というのも、私は狭く深い友人関係をもつ人です。特に深い友達間関係であれば、同居とか添い寝とかもできると思います(相手がどう思っているかはわかりませんが)。そのような友情と恋愛感情の区別がつかないのです。この結果、リレーションシップ・アナーキーの思想に近い考え方になったのでしょう。
 ただ、性的な接触はないです。俗にいう「経験なし」であり、「童貞」です。女の味も知らないし男の味も知らないです。なので、自分が同性愛者だという自覚もないです。ただ、同性愛者や異性愛者の存在をネットで知って勇気づけられました。ガチムチパンツレスリングの妖精たちも尊敬してますし、特にQueenのフレディ・マーキュリーさんには勇気づけられました。「普通」じゃなくてもいいんだと。マイノリティでもいいんだと。そしてLGBTというものを知ります。
 しかし自分が同性愛者という自覚もないですし、両性愛者という自覚もないわけです。LGBTの一員であるというのにも違和感があります。だからといって異性愛者というわけでもなさそうです。そもそも本当に恋愛感情を抱いているのか?という疑問もあり、無性愛者のことも調べていますが、結論は出ていません。その結果、「いかなる枠組みは人間の認識が作り出した虚構だ」というアナキズムのような考え方になりました。

 このような考え方は、人間愛とかそういう高尚なものだと思っていました。「普通」ではないことというのは別に恥ずべきことではないと思っていました。むしろ多くの人々が「普通」のつまらない考え方をしているのに対して、自分はそれを脱して個性的でより高次元の考え方をしているんだと、誇りに思っていました。
 しかし、こうして過去を振り返ってみると、原因は「中学校時代に女子と関わって嫌がらせをされた」という、なんともちっぽけでつまらない出来事だとわかるのです。私の考え方は、ただ単にそのトラウマで女性と接することがほとんどなかったから形成されたのです。まさに、ルサンチマン。
 人間にはもともとジェンダーはないわけです。それが社会によって「正常」なジェンダーに教育されるわけです。そんな中、何らかの要因で「正常」から逸脱する人がいる。私はその中の一人だったわけです。

 ただ、逸脱=悪というわけではありません。私は、自分の考えに失望しましたが、だからといって手放す気はありません。なぜなら、やはりジェンダーフリー的な考えのほうが自分が納得できるからです。

 そんな感じで、これからもインターネット上でいろいろとつぶやいたり書いたりすると思います。そのときはよろしくお願いします。

2018年4月6日金曜日

性についての考え方(自論)


 私の考え方は、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー)やその他の性的マイノリティ(パンセクシャル、Aセクシャルなど)に近いかもしれません。フリージェンダーというやつです。一種のアナキズムかもしれません。

 男性とか女性とか、そういうのは社会的に作られた習慣的なもので、実際にはなにも存在していないんだ。あるのはオスとメスの体の構造の違いだけだ。それだけの小さな違いを絶対視する必要はないと思うのです。だから男女関係なく平等に扱われる社会にも大賛成ですし、同性愛でも異性愛と同じように結婚できるようにするのに大賛成です。愛し合っているという点では同じですからね。


 私の世界には、男女の枠組みも、同性愛者や両性愛者や無性愛者といった枠組みもありません。そこには人間がいるだけです。いや、人間という言い方にすら違和感を覚えます。動物や植物、さらにはその他の有機物や無機物も同じです。「存在」という言い方がいいと思います。「存在」が、それぞれ好きなように別の「存在」とくっついたり離れたりしている。それだけです。
 そこには何の枠組みもありません。ただ、そのままでは理解しきれず、生活しにくいですから、我々が勝手に枠組みを設定し、他者と共有しているだけです。大したことは何もありません。すべては我々の認識が作り出したものです。この点で、ニヒリズムに近いかもしれません。

 また、友達とか、恋人とか、そういう人間関係の区別も本来はないものだと考えています。友達として好きなのか恋人として好きなのかの区別がわからないというものがあります。もともとそんな区別なんてないのです。1メートルの線があるとして、それを各々が勝手に「ここまでが友達。これより向こうは恋人」という風に考えるだけです。一緒の部屋で寝るとか、手をつなぐとか、そういうのは一種の目印です。50cmとか75cmとか、そういうのと同じです。そういうのをごちゃごちゃ言っているだけです。大したことはありません。人それぞれのことです。それを他者に押し付けるのはやめるべきでしょう。このような考え方は、リレーションシップ・アナーキー(Relationship anarchy)と呼ばれるらしいです。

このような考え方をしています。何かの参考になれば。

私個人の身体的な性について


 ブログという形ですと、筆者がどんな見た目かどうかはわかりません。しかし、私の考えをより正確に伝えるために、ある程度の身体的な特徴は記しておいたほうがいいかなと思ったので書きます。その方が実感をつかめますもんね。

 まず、そもそも身体的な特徴としての性別生物学的な性別と言われることもあるような性別。これは男です格好も男です。服も基本的に男物です。スカートも履いたことがありませんし、化粧もしませんし、普通に男の見た目です。日常生活では男として扱われています。使うトイレも男性用です。

 しかし、自分が「精神的に」男であるという実感はありません。外見は男の格好なのですが、服や髪形などすべて子供時代から同じようにしているだけです。幼いころから男として育てられ、男の服を勝手に用意され、それをそのまま着ていただけなのです。別に「男になった」という実感もないです
 男女関係なく「人間」でいいのではないかと思います。履歴書などで「男・女」という選択肢があるのを見るたびに、男のほうに丸をつけるのが無理というわけではなく平然と丸を付けますが、すっきりしないです。「その他」という項目があればそちらに丸を付けたいぐらいです。「男」という性別にくくられるのに違和感がありますし、「女」という性別にくくられるのも違う感じがします。ましてや、「男は......」「女は......」という風にひとくくりにして語る輩がいます。そういうのを聞くたびに違和感を覚え、異議を唱えたくなります。「男」とか「女」とか、そのような枠組みで人間を二分することなどできないと思うのです。身体の一部分が違うだけで、そんな扱われ方が違っていいものか!同じ人間じゃないか!

 そのような経緯があり、フリージェンダーに近い考えを持っています。

いじめ体験談的なもの

 私は子供時代にいじめを受けたことがあります。その体験談など。主に小学校と中学校での出来事について。
 この前、休みということもあり、時間がありました。そこで、ふと自分の過去のことを振り返ってみたのです。すると、自分の子供のころの出来事、特に「いじめ」のようなものが、私の価値観とか考え方を形成するうえで、非常に大きな影響を与えたということがわかってきました。その結果、どうやら私は屈折して、社会で「正常」とされているライフスタイルや考え方から逸脱してしまったようです。
 そこで、自分の受けたいじめというものを書いてみたいと思います。ただ、注意が必要なのは、これは主観的に認識されたものだということです。いじめをするほうからしたら「こんなの遊びでしょ」とか、先生からしたら「ただの遊びでしょ」ということもあるかもしれません。客観的にはあんまりたいしたことではなかったのかもしれません。しかし、私個人にとってはとても嫌なことで、「いじめ」だと思っていました。殴る蹴るについては、犯罪であるとも思います。昔の出来事で、記憶違いなども多少はあるかもしれませんが、そのあたりはご容赦願います。
 著者の基本プロフィール
年齢......現在、20歳前後
性別......身体的には男性(ただし、精神的には男性であることにも女性であることにも納得していない。このことについてはまた記事を書くかもしれません)
外見......やせ型、眼鏡
性格など......自分では判断にくいが、内向的だと思われる。インドア派。
趣味......読書、音楽鑑賞、ゲームなど
  

  小学校時代

 小学校の頃は、中学校の頃と比較すると、あまりいじめはひどくなかったと思います。というのも、中学校時代のいじめの加害者となる人は、同じ小学校ではなかったので。ただ、いじめがないかといえばそんなことはありませんでした。殴る蹴るの暴力は少なくて、悪口(名誉棄損)とか器物損壊が多かったように思えます。昔のことであまり覚えていませんが、覚えている範囲で。
・靴や水筒を隠される。
・「○○(私)菌」がつくと言われる。菌扱いされる(これは他にも言われている人がいた)。
・机の上に落書きされる。
・服を濡らされる。
・声とか話し方をバカにされる。
・外見(あんまり書くと個人が特定されそうなので詳しくは書きませんが、体のある部分が左右で大きさが違うということ)をバカにされる。
などが主ですかね。いろいろと言われたりやられたりして、私は当時怒ったり泣いたりして、それが彼ら(いじめっ子)にとっては面白かったらしいですそれで、このような嫌がらせが続いたと考えられます
小学校時代は、先生は比較的しっかりと対応してくれました。先生に言うと、先生はいじめっ子を注意してくれました。しかし、何度注意されても彼ら(いじめっ子)は嫌がらせをやめませんでした
一番記憶に残っているのは、遠足に行った時の出来事です。そこには手すりのない橋がありました。高さは5mぐらいだったような気がします。その橋をみんなで渡っていたのですが、いじめっ子が私を橋から突き落そうとしてきたのです。「殺す気か!!!!」という感じです。手すりがないので簡単に落ちてしまいますし、高さも高いので、運動神経のない私ならきっと落ちたら死ぬと思います。当時小学生ですし。本当に恐ろしいことをしやがるなと思いました。落っこちればいじめが大ごとになって復讐できるかと思いましたが、死ぬのが怖かったので頑張って抵抗し、落ちずに済みました。多分彼(いじめっ子)にとっては「ちょっとビビらせてやろう」というつもりだったのかもしれません。しかし、怖すぎます。せめて、手すりがある安全なところにしてくださいという感じです。
まあ、小学校時代はこんな感じですかね。

  中学校時代

 中学校の頃、特に一年の頃が私の人生では最悪です。その中学校(地元の公立)には、私の出身の小学校(公立)と別の小学校(公立)の二つから生徒が入学します。いじめっ子になったのは、その別の小学校から進学してきた生徒数人です。小学校時代のいじめっ子は別の中学校(おそらく私立か)を受験して進学したので(いじめっ子とはいえ、頭はよかったんですねえ)、いじめからは解放されるかと思いましたが、別の人がいじめっ子になるだけで、むしろさらにひどくなりました。
 まず、いじめが始まった経緯をお伝えしましょう。入学直後、委員会とか役割分担を決めます。例えば、クラスを代表するクラス長とか、病気の人をチェックして保健衛生を担当する保健委員とか、国語の授業の準備や片づけをする国語委員などです(役割の名前は記憶があやふやであまり覚えてないですが)。
 そこで、私は社会の授業が好きだったので、社会委員に立候補しました。しかし、「委員会などというものは自分でやりたいのを立候補するのではなくて、仲のいい同性の友達と一緒にやる」というのが普通だったのでしょう。教科ごとの委員はそれぞれ二人選ぶのですが、国語とか数学とか、ほかの教科はすべて同性の友達同士(男二人、あるいは女二人)でやっていた記憶があります。そんな中で、私は友達もいませんでしたし、一人で立候補したわけです。そうしたらある女子が社会委員に立候補しまして、唯一男女ペアになったわけです
 これがどうやら、彼ら(いじめっ子。小学校時代のいじめっ子とは別人。別の小学校から来た)には面白かったみたいです。からかわれるようになりました。彼らは「あの子のこと好きなんだろ?」とか言ってきました。私は別にその女子をなんとも思っていなかったので、「そんなことはないよ」と言いました。しかし、その回答ではつまらなかったらしく、しつこく言ってくるので、私が怒り出すと、私のその反応を面白がってからかい始めました。「式に決まってるだろ。そうでなきゃどうして一緒に委員なんてやってるの?」「ほらほら、そんなに怒っちゃって。怒るほど好きなんだね」という感じですかね。結局、「本当は好きなのにそう言わないなんて嘘つきだぞ!!」となって、「いや、僕は嘘つきなんかじゃない!!」と言い返す。すると「うーそーつきっ!!うーそーつきっ!!」みたいな雰囲気になる。そして、私は自分の名誉を「嘘つき」という言葉で不当に傷つけられ、泣くわけです。すると、それがまた彼らには面白かったようで、さらにいろいろなことを言いふらされるようになります
 これが始まりですね。この出来事は、かなり私の人生全体に影響を与えました。その結果、私が「正常」とか「普通」とか言われる考え方や生き方から逸脱することになりました。このことについては、また詳しく記事を書きます。
 さて、これ以降、私の対応を面白がった彼らは、様々なことをしてきます。
軽いほうから言っていきますと、
・机に落書きをされる
・根拠のないうわさを流される。
・給食のメイン料理やデザートを奪われる。
・筆記用具や持ち物を汚されたり、隠されたり、ごみ箱に捨てられる。
・変な声を出させられる。
・服を脱がされる。
・浣腸される
・複数人に取り囲まれて殴る蹴るなど暴行される。
などですね。個人的には浣腸のほうがよっぽど嫌なんですけど、重大性から言うと複数人からの暴行のほうが重いかなと思い、この順番で並べました。持ち物をめちゃくちゃにされるのは、身体的にはなにも痛くないんですけど、やっぱり自分のことというよりは、親が頑張って働いて得たお金で買った大切な物を、そういうふうに扱われるのがとても嫌でした。あと、変な声を無理やり出させられるというのはいまだに謎。
頻度は、結構多かったように思います。時期によりますが、一週間に一度は持ち物のうち何かがなくなっていますし、複数人に殴る蹴るをされるのは、毎日とまでは言わないまでも、一週間に2、3日程度はありました。彼らの興味が自分に向いていなければ平和なのですが、他の人がいじめられていることもあるので複雑な気持ちです。自分に興味が向いているときは休み時間になるたびに集まってきて、殴る蹴るなどの暴行が授業が始まるまで続く、という日もありました。朝、学校に行くたびに、「今日は何もされないといいなあ」と思っていました。

 あと、こういう行為自体もひどいのですが、先生の対応が特にショックでした。先生が、ちゃんと対応してくれないのです。先生に言っても、先生はいじめっ子を注意しません
 あるとき、私はいつも通り教室の隅で殴る蹴るの暴行を複数人から受けていました。ちょうどそのとき、担任のA先生がやってきたので、敢えて担任に見える場所向かって頑張って逃げつつ、先生のほうを向いて、口には出さないものの、「ねえ、僕いじめられてるよ(迫真)」という顔をして、助けを求めることにしました(我ながら戦略的)。しかし、担任のA先生は、ちらりちらりと私のほうを見るのですが、すぐに何事もなかったかのようにそっぽを向くわけです。これは、ショックでした。あのときのA先生の顔は忘れません。
 ただ、先生がちゃんと対応してくれたことが二回だけあります。
 一つは、親が苦情を言ったとき。私は親にいじめのことを言っていました。幸運なことに親は親身になって話を聞いてくれて、それが救いでした。そんなある日、親が私の体が傷だらけだと気が付いて、これは問題だということで、学校に苦情を言いました。その次の日、すぐに担任Aが「体調は大丈夫か」などと言ってきました。さんざん無視していたくせに。何をいまさらという感じです。さらに、面白かったのは、いじめっ子たち本人が、まるで「自分たちは優しい味方ですよー」という雰囲気を醸し出しつつ、「おい、お前。服脱いで背中見せてみろ。誰にこんなひどいことされたんだ?そんなやつは俺たちがボコボコにしてやるよ!」。いや、お前らだろーが!!!と思いましたが、それを言うと報復されそうなので何も言いませんでした。こうして、一週間ぐらいは平和になったのですが、しばらくするといじめが復活しました。のど元過ぎれば熱さ忘れる、という感じでしょうか。
 もう一つは、公園でボコボコにされているのを見ていた地元住民が警察に通報したときこのときの学校の対応は、異様でしたよ。いままで何も対応しなかったくせに、急に生徒指導の先生が出てきて、教室に関係者を集めて、事情聴取したり激しく怒ったりするわけですから。本来はこうであるべきなんですけどね。このときは担任のA先生ではなく、生徒指導担当っぽいB先生(いつもは関わる機会があまりなかった)がみっちり対応してくださって、非常にありがたかったんですが、一つだけ「アレ?」ということがありました。その先生が、「○○(私です)はこんなにやせっぽちだけど何も悪いことをしないのに、お前(いじめっ子のことです)はこんなデカい体なのにこんな情けないことをしている。恥ずかしくはないのか!!!」。あの、いじめを叱ろうという場で、体形のことを口に出すってどうなんですかねえ。少し違和感があります。

 こんな感じですかね。一年生の頃はこんな感じでさんざんだったわけですが、二年生になるといじめっ子と別々のクラスになり、仲のいい人とも同じクラスになったので、私がいじめにあうことはなくなりました。ただ、これは学校から暴力や嫌がらせがなくなったということではないです。場所と被害者が変っただけです。悲しいことに。そして、高校はそれぞれ受験して別々のところに行きました。学力レベルごとに分かれたのですが、私と同じような学力レベルには暴力をふるう人はいませんでした(とはいえ、嫌がらせや金品の要求などのいじめ問題はありましたし、不登校の人もいました。ただ、その高校は中学と比較するとちゃんと対応してくれました)。こうして、私はいじめという世界から離れていきました。
 いじめから離れて数年経つとはいえ、いじめ経験者であることに変わりはありません。どんなことがあったのかを書くことによって誰かの役に立つことを期待して、この文章を書きました。
 もし、これを読んだ人の中に、いじめを受けている人がいたら、「自分は孤独だ」と思わずに、ぜひ声をかけてください。ツイッターなどやっているので、もし相談などあればどうぞ。

2018年4月5日木曜日

いじめへの対処について

 自分なりに、いじめにどのように対処すればいいか、少し考えてみたので書きます。
 まず、いじめはやり方によっては犯罪です。「いじめ」という言い方がよくないかもしれません。正しく言えば、傷害、名誉棄損、器物損壊です。犯罪なのですから、本来であれば警察に通報し、事件として警察に処理されるのが正当です。「いじめっ子」と呼ばれているのは本来であれば加害者であり、犯罪者です。なので、警察はしっかり対応すべきだし、社会全体もこのように認識すべきです。ただ、現状としてこのような認識が社会にあまりなく、「いじめ」として学校内の問題として処理され、隠蔽されることが多いと思います。警察に通報したら、逆に激しくなる可能性があります。そのため、そのような被害を受けている方は、別の対応を検討する必要があります。もちろん、警察に通報して解決するというのが正しいので、社会に対してはそのような正しい対応を強く求めます
 さて、いじめの対応として、逃げることはとても大事です。耐えた結果、命を失ってはもったいないですからね。いじめが原因で自殺してしまう人のことをニュースでよく見ますが、自殺というのは選択肢としてあまりよくないと思います。もちろん、生きているよりも死ぬことのほうがよっぽど楽という場合は、私は自殺に賛成です。だってそうしたほうが楽で、自分のためですもん。でも、これが当てはまるのはとんでもない病気や怪我で、ただでさえ痛いのに、延命のためにとても苦しい治療をしないといけなくて、しかも回復不能の場合です。このような場合、選択肢は過酷な苦しみの中で生き続けるか、自殺するか(あるいは尊厳死か)だけです。これなら死を選ぶほうが合理的です。
 でも、いじめの場合は違います。例えば、学校でいじめられるか、対応次第でいじめられなくなるか、自殺するかです。選択肢は多いわけです。苦しい人生か、自殺かの二者択一じゃないんです。なので、自殺よりもよっぽどいい選択肢もあります。
 自殺を選ぶ人の中には、「自殺すれば大ごとになって、いじめ問題が社会に知れ渡って、学校が対応しなければいけなくなるから、いじめられている人が助かる」とか「いじめっ子や先生に復讐できる」とか考えている人も多いと思います。しかし、そんなうまくいくのは少ないです。ほとんどは学校に揉み消されるでしょうし、いじめっ子も不起訴や無罪になる可能性が高いと思います。もし、大々的に報道されて事件になったとしても、世間の人々はすぐに忘れてしまいます。なので、命を失うという甚大な費用に対して、効果が少ないので、あまりいい選択肢ではないです。
 では、どうするか。まずはいろいろと対応してみて、いじめがなくなるかどうか試しましょう。よく、「いじめられっ子の反応が面白いからいじめられるんだ。泣いたりせずに無視してれば、いじめられっ子はいじめがつまんないと思ってやめる。だから無視すればいい」と言う人がいますが、これができるならこれほど楽なことはありません無視なんてできる人は限られているでしょう。本人は無視しようとしても、泣いてしまったりするのはどうにもなりません。泣くというのは本人の意思ではどうにもなりません。なので、無理です。また、顔や体形など、外見のことでいじめられている場合は、外見はどうにもならないので、対処のしようがありません。
 あと、「仕返しすればいい」と言う人がいるかもしれません。例えば殴ったりとか。しかし、それはよくないです。まず、相手が複数人の場合は太刀打ちできないからです。自分がものすごく体力があるとか、腕力があるとかならいいのですが、そうでなければ返り討ちにあって余計に痛めつけられます。次に、いじめっ子に「いじめる正当性」を与えてしまうからです。「いじめられっ子が殴ってきた。それなら俺たちもあいつを殴っていいよな」という感じです。さらに過酷になります。
 では、どのような対応が現実的か。いじめを先生に言うか、友達に言うか、親に言うか、転校するか、不登校になるか。このあたりではないでしょうか。
 先生に言うという場合。この場合、先生次第でよくなることもあれば悪くなることもあります。先生がちゃんと対応して、いじめっ子を注意し、しかもそれでいじめっ子が本当に反省したのであればいじめはなくなります。しかし、ほとんどの場合はこのようにうまくいかないのではないでしょうか。先生がいじめっ子を注意してもいじめが繰り返されることもあります。先生に言うと「チクった」ということでいじめがひどくなります。もちろん、先生に言うことは正しいことですから、「チクった」などと、悪いことのように扱われるのは不当です。ただ、現実的にはそれが現状です。いじめっ子による報復に注意する必要があります。また、先生によっては、いじめに全く対処しない人もいるかもしれません。本当に腹立たしいことです。一つのやり方として、たくさんの先生に言いつけるというやり方があります。例えば、担任の先生に言うだけではその先生が対応してくれなければダメです。他の先生、別の教科の先生とか、生徒指導の先生とか、教頭先生とか、保険の先生とか、いろいろな先生に声をかけるといいと思います。親身になってくれる先生がいるかもしれません。
 次に、友達に言う場合。これも成功する場合と成功しない場合があります。私の場合、いじめられっ子で仲良く集まって、同盟を組むということがありました。いじめをなくすことはできませんでしたが、「自分は一人ではない」というのは心強かったです。ただ、クラス全体でいじめが行われているとか、仲のいい人がいないという場合には厳しいと思います。
 次に親に言う場合。これも親次第です。親がちゃんとした人なら少なくとも家の中では安全ですし、先生に苦情を言うこともあります。ただ、それで動くかどうかは学校側の対応次第です。親が警察に通報してくれるという場合もあるでしょう。私の事例ですと、親が最後の砦でした。ただ、親がちゃんと対応してくれない場合は手詰まり感があります。というのも、そうなると家も安全かどうか微妙ですし、転校するとか不登校になるという選択肢も消える可能性があるからです。中には、児童虐待をする家庭もあるかもしれません。言語道断です。子供の気持ちになって対応することを強く要求します
 次に、転校する場合。私自身は転校の経験があまりない(親の都合で転校ということはありましたが......)ので、あまり言えません。でも、転校すると周りの人間関係が変わりますし、しかもいじめっ子と離れることができるわけですから、いい選択肢だと思います。ただ、新しい人間関係を作るのに失敗すると、大変かもしれません。
 最後に、不登校になる場合。不登校というと、あまりいい印象ではないかもしれません。しかし、不登校はまったく悪いことではありません。不登校でも自分で勉強して、高校を卒業したという友達もいます(しかも彼は大学にも行っています)。もし、子供がいる方で、「不登校なんてダメだ」と思っているからがいましたら、その認識をすぐに改めるように強く要求します。不登校は、正しい選択肢の一つです。一つ、具体的な事例を挙げましょう。伊集院光さんという方がいます。テレビで特にクイズ番組に出ている、あの人です。あの方は、(私も最近そのことを調べて知ったのですが、)元不登校とのことです。しかし、テレビを見ればわかるように、あの方は光り輝いています。不登校は悪いことではありません。伊集院さんは不登校という経験をテレビやラジオで語ることもありますが、これには勇気づけられる人は多いです。私も勇気づけられています。なので、自信を持ってください。伊集院さんを目指して、生きてみるのもいいと思います。
 以上、いじめに対処するための自分なりの選択肢を書いてみました。お役に立てましたら幸いです。

失敗について

何か失敗をしたときは、自身の愚かさや過ちを嘆いてばかりではいけない。
自己に思考を沈着させ、行動しなくなるというのは、失敗の対処としては適切ではない。

とにかく、他者の意見を聞きつつ、その失敗に対処するための策を考えることに思考を向け、行動することだ。

その失敗が修正可能なものであるならば修正し、修正不可能なものであるならば他の部分で穴埋めをする。

たしかに失敗したことは確かなことで、どうにもならないことだ。
しかし、その失敗が、君の人生すべてを台無しにすると思うな。失敗というのが君のやったことの最終結果ということではない。失敗したとしても、まだまだ先はあるのだから、これから頑張ればいいのである。
むしろ、失敗したことを忘れず、より努力を重ねるのであれば、失敗は自己を強化し克服するためのいいチャンスとなる。

過去の出来事が性意識や価値観を作り出す

 過去の出来事を振り返ると、自分の思わぬルーツが見えてくる。    この前、ふと自分の過去を振り返ってみました。すると、 自分の子供のころの出来事、特に「いじめ」のようなものが、私の価値観とか考え方を形成するうえで、非常に大きな影響を与えたということがわかってきました 。その...